聖徳宗・太子宗

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聖徳太子ゆかりの宗派に、聖徳宗(法隆寺)・和宗(四天王寺)・太子宗(叡福寺)がある。

中宮寺 奈良県

聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために建てた寺と伝えられる尼寺。本尊の菩薩半跏思惟像(国宝)は飛鳥時代後期の作

法輪寺 奈良県

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622年に山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、父の聖徳太子の病気平癒を願って建立した寺と伝わる

聖徳宗とは

聖徳宗(しょうとくしゅう)は法隆寺を総本山とする仏教宗派である。

法隆寺を本山とする

法隆寺は推古天皇と聖徳太子(574~622)が607年ごろ、奈良県斑鳩の里(斑鳩宮)の地に、寺院とご本尊の薬師如来像をつくったと伝えられる。聖徳太子が仏教を国の中心におき、斑鳩が末永く「仏法が興隆する地」となるようにと、「仏法興隆」を略して法隆寺と名のるようになった。

聖徳太子とは用明天皇と穴穂部間人皇女の第二子で、 厩の戸にさしかかったときに出産したことから厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれる。

法隆寺は現存する世界最古の木造建築として知られ、飛鳥時代の寺院建築の姿を残し、1993年にユネスコ世界文化遺産に登録された。五重塔は日本最古の仏塔とされる。

法隆寺の近くには、法起寺(ほっきじ)や中宮寺(ちゅうぐうじ)といった聖徳宗の寺院が点在する。

  • 法起寺:法起寺は1993年に法隆寺とともに世界遺産に登録された。聖徳太子の没後、638年に建てられた寺であり、聖徳太子が606年に法華経を講説した岡本宮を寺に改めたと伝えられる。法起寺の三重塔は706年に建立された現存最古の三重塔であり、国宝に指定されている。
  • 中宮寺:法興山中宮寺は7世紀前半に建立された女性出家者のための尼寺である。開基は聖徳太子、あるいは聖徳太子の母の間人皇后とされる。

聖徳太子ゆかりの法隆寺は法相宗(南都六宗の1つ)の一本山であったが、1950年に聖徳宗と名のり独立を果たす。

※法相宗は、薬師寺と興福寺と法隆寺の3ヶ寺を大本山としていた。

※聖徳太子ゆかりの宗派に、和宗(わしゅう)がある。和宗は聖徳太子が官寺として建てた四天王寺を総本山とする。

宗派名聖徳宗
本山法隆寺
本尊釈迦三尊像、薬師如来像、阿弥陀三尊像
寺数20強
住所奈良県生駒市斑鳩町法隆寺山内1の1
公式サイト聖徳宗総本山 法隆寺 (horyuji.or.jp)
奈良「法隆寺」 Horyuji Temple(SouthernValleyDiaryより)

太子宗とは

太子宗(たいししゅう)は大阪府太子町(たいしちょう)にある叡福寺を本山とする単立寺院である。

叡福寺を本山とする

叡福寺は太子宗の本山で、和宗本山の四天王寺、聖徳宗本山の法隆寺とならび聖徳太子信仰の中核寺院となっている。

聖徳太子の墓所とされる聖徳太子御廟、磯長墓(しながのはか)があることで有名。廟には620年に亡くなった聖徳太子のほか、母の穴穂部間人皇女と妃の膳部菩岐々美郎女が共に埋葬されている。寺伝によると、推古天皇が墓守りの住むお堂を建てたのが叡福寺のはじまりとされる。

724年には聖武天皇の勅願より、七堂伽藍が造営されたとされ、その後は叡福寺や石川寺、太子寺、御廟寺ともよばれていた。

平安時代以降、大師信仰が興隆し、四天王寺・法隆寺と並び叡福寺も参詣が盛んになる。

1950年に高野山真言宗金剛峰寺から離脱し単立寺院となり、太子宗となのった。

宗派名太子宗
本山叡福寺(磯長山 叡福寺)
本尊如意輪観音菩薩
住所大阪府南河内郡太子町太子2146
公式サイト上之太子 叡福寺 聖徳太子御廟所 (eifukuji-taishi.jp)

※ 聖徳太子の墓である御廟は叡福寺北古墳と呼ばれる古墳であり、 宮内庁により「磯長墓(しながのはか)」として聖徳太子(厩戸皇子)の墓に治定され管理されている。

【叡福寺参拝】空海や親鸞たち名僧が参籠した聖徳太子御廟があるお寺(さくらのご利益めぐりより)