目次
浄土真宗とは
浄土真宗とは「親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、浄土の真実を人生や生活の宗(中心)とする同朋教団」のことで、「真宗」とも表現する。
宗旨 | 浄土真宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 南無阿弥陀仏 |
大切な経典 | 仏説無量寿経 仏説観無量寿経 仏説阿弥陀経 |
宗祖 | 親鸞(1173~1262) |
宗祖の主著 | 教行信証 |
主な宗派 | 真宗十派(真宗教団連合) |
真宗十派とは
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は自身の著書『教行信証』で、「真実の教は、浄土真宗である」と述べた。
親鸞を宗祖と仰ぎ、その阿弥陀仏をたよりとした浄土真宗を信奉する教団は、いろいろな歴史的事情から、現在では十派にわかれている。真宗十派は親鸞の子孫や弟子らにはじまる10の宗派であり、1969年に真宗教団連合を結成した。
- 真宗高田派:本山専修寺
- 真宗興正派:本山興正寺
- 真宗佛光寺派:本山佛光寺
- 真宗木辺派:本山錦織寺
- 真宗出雲路派:本山毫摂寺
- 真宗誠照寺派:本山誠照寺
- 真宗讃門徒派:本山専照寺
- 真宗山元派:本山證誠寺
- 真宗大谷派:真宗本廟
- 浄土真宗本願寺派:本願寺
- 真宗十派のうち本願寺派のみ「浄土真宗」、他9派は「真宗」を公称している
- 「真宗三門徒派」は2020年11月29日の本山専照寺御正忌報恩講令和2年厳修の後、「真宗讃門徒派」に変更される
真宗高田派
宗祖親鸞が1226年に関東布教の途中、栃木県高田に一宇を建立し、長野県善光寺の一光三尊阿弥陀如来を模造した本尊をおまつりしたのが、専修念仏の根本道場「本寺専修寺」のはじまり。
京都に戻った親鸞の後、真仏や顕智といった弟子が寺を継いだ。
15世紀半ば第10世真慧の頃に、三重県一身田に伊勢国内・西国布教の中心寺院として専修寺(無量寿寺)が建てられた。その後、歴代上人が一身田に居住するようになり、ここが「本山専修寺」として定着した。
真宗興正派
越後流罪を赦免された宗祖親鸞が一時京都に戻り、1212年に京都の山科に一宇を建てたのがはじまり。順徳天皇より「興隆正法」の勅願を受け、略して「興正寺」と名のった。その後「佛光寺」とも名のるようになった。
1482年に第14世の蓮教は本願寺の蓮如と合流し、興正寺と佛光寺は分かれ、興正寺と本願寺は親交を深めた。
1591年豊臣秀吉の命により、本願寺とともに寺を京都七条堀川(現在地)に移転した。江戸時代は本願寺扱いを受けていたが、1876年に別派独立した。
真宗佛光寺派
流罪を赦免された宗祖親鸞が、1212年に京都に一時帰り山科に草庵を結んだのが、佛光寺のはじまり。はじめは「興正寺」と名のっていたが、1320年に寺を京都の渋谷に移し、第7世了源の時代、後醍醐天皇の「阿弥陀佛光寺」の勅額より「佛光寺」とも名のるようになった。
佛光寺は室町時代まで最大規模の真宗教団だったが、興正寺の分かれなどにより仏光寺は次第に衰え、本願寺が台頭するようになった。1586年には豊臣秀吉の命により、寺を京都五条坊門(現在地)に移転した。
女性差別の激しい南北朝時代に佛光寺派は日本の仏教宗派において、歴史上初めて女性の門主(宗派宗門の代表)を輩出した。これまで3度女性門主が誕生。
真宗木辺派
木辺派の歴史は真宗十派で最も古い。
858年、比叡山延暦寺の3代座主円仁の指示で滋賀県木部の地にお堂が建てられ、比叡山東塔の霊木で作られた毘沙門天王像が安置された。1235年に関東布教から京都に帰洛途中の宗祖親鸞が、この天安堂に立ち寄り阿弥陀如来の尊像を安置し、浄土真宗の教えを説いたのが木辺派のはじまり。霊木の辺の村から「木部」と呼ばれるようになり、現在は「木辺」となっている。
親鸞が『教行信証(顕浄土教行証文類)』の最後の二巻をこの地で滞在中に完成し、1238年に妙なる音楽が鳴り、天女が舞い降り蓮の糸で錦を織り阿弥陀如来の仏前にささげたと伝えられる。その錦を四条天皇に献上したところ「天神護法錦織之寺」の勅額を賜り、それ以来「錦織寺」と号するようになった。
真宗出雲路派
1233年、関東から戻った宗祖親鸞が京都の出雲路(京都上加茂と下加茂の間)に一宇を建てたのがはじまり。
第5世善幸の時代、1338年に山元の庄(福井県鯖江市神明町)に移転し、真宗山元派本山證誠寺に身を寄せた。
1596年、第12世善照は福井県越前市清水頭(現在の地)にて伽藍をととのえ毫摂寺を再建した。この地には聖徳太子堂があり、豊臣秀吉により除地朱印となっていたとされる。
真宗誠照寺派
宗祖親鸞は1207年念仏禁止の令により越後への流罪が決まった。その道中に越前国上野ヶ原(福井県鯖江市)の豪族波多野景之の別荘に滞在し、弥陀本願念仏の要法を説いた。この地が親鸞の最初の説法の地とされ、輿車に乗ってきたことから「車の道場」と呼び、誠照寺の歴史がはじまる。
その後親鸞は子の道性を送り、波多野景之の寄進により現在の地に堂宇を建て、後二条天皇より「真照寺」の勅額を賜る。
越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと念仏の教えが広まり「和讃門徒」と称し、1437年第7代秀応のときに後花園天皇より「誠照寺」の寺号を賜る。
真宗讃門徒派
1290年に宗祖親鸞の法脈を継ぐ如導が仏法興隆のため、福井県福井市大町に一宇を建立し、寺号を専修寺と称した。
如導の亡くなった後の専修寺から、道性が横越に證誠寺(現在の山元派)、如覚が鯖江に誠照寺(現在の誠照寺派本山)、浄一が中野に専照寺(現在の讃門徒派)を建立したのが起源。これら誠照寺・證誠寺・専照寺の系統につらなる人たちを指して「三門徒衆」や、親鸞の「三帖和讃」を重視したことから「讃門徒」とも呼ばれた呼ばれた。
1724年に福井市みのり(現在の地)に移った。一時は真宗大谷派にも属したが、1878年に真宗三門徒派として独立した。現在は「真宗讃門徒派」と名称を変更する。
真宗山元派
宗祖親鸞は越後への流罪の道中に山元の庄(福井県鯖江市水落町)に立ち寄り、浄土真宗の教えを説いたことがはじまり。
京都に戻った親鸞は、子の善鸞に自身の御影や真筆の名号などを差し遣わし、善鸞の子の浄如が京都から親鸞の分骨を奉持して山元の庄に寺を開き、親鸞の遺志を継いで真宗の教法をひろめた。
1303年、後二条天皇より「山元山護念院證誠寺(しょうじょうじ)」の勅額を授かる。1475年、第8世道性のころに山元から横越(現在の地)に寺を移す。一時は浄土真宗本願寺派に統合されたが、1878年に山元派として独立。
真宗大谷派
1272年に京都東山(大谷の西・吉水の北)の地に六角の廟堂(大谷廟堂)を建て、宗祖親鸞の影像を安置し遺骨を移したのがはじまり。その後、本願寺(廟堂)は大阪へ移転する。
第11代顕如のころ、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂を退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如は顕如と意見が対立した。1591年京都堀川七条に本願寺(現在の本願寺派)は移転した。長男教如が本願寺を継ぐが豊臣秀吉より隠居させられ、三男准如が本願寺を継いだ。
教如は1602年、京都市下京区烏丸通七条(現在地)を徳川家康から寄進され、ここから真宗大谷派の本山である「東本願寺(真宗本廟)」が誕生した。
浄土真宗本願寺派
宗祖親鸞は1262年に京都大谷の地に埋葬された。1272年に京都大谷の西・吉水の北の地に六角の廟堂を建て、親鸞の影像を安置し遺骨を移したのが本願寺のはじまり。
本願寺の歴代上人は廟堂の留守職であり、室町時代までは佛光寺派や高田派などよりも小さな真宗教団だったが、第8代蓮如の頃より本願寺は急速に拡大。
本願寺は寺を各地に移したが、1591年第11代顕如の時に豊臣秀吉から京都下京区七条堀川(現在地)の寄進されて、大阪から移転した。大阪本願寺の地には豊臣秀吉が大阪城を築く。
動画で見る浄土真宗本山
滋賀県にある木辺派錦織寺、三重県にある高田派専修寺。
福井県にある讃門徒派専照寺、誠照寺派誠照寺、山元派證誠寺、出雲路派毫摂寺の越前四箇本山。
浄土真宗の宗派一覧と本山
宗派名 | 本山 | 別称 | 住所 | 寺院数 |
---|---|---|---|---|
高田派 たかだ | 専修寺 せんじゅじ | 高田本山 | 三重県津市 | 600強 |
興正派 こうしょう | 興正寺 こうしょうじ | 京都市下京区 | 450強 | |
佛光寺派 ぶっこうじ | 佛光寺 ぶっこうじ | 京都市下京区 | 400弱 | |
木辺派 きべ | 錦織寺 きんしょくじ | 滋賀県野洲市 | 200弱 | |
出雲路派 いずもじ | 毫摂寺 ごうしょうじ | 五分市本山 | 福井県越前市 | 50強 |
誠照寺派 じょうしょうじ | 誠照寺 じょうしょうじ | 鯖江本山 | 福井県鯖江市 | 50弱 |
讃門徒派 さんもんと | 専照寺 せんしょうじ | 中野本山 | 福井県福井市 | 40弱 |
山元派 やまもと | 證誠寺 しょうじょうじ | 横越本山 | 福井県鯖江市 | 20 |
大谷派 おおたに | 真宗本廟 しんしゅうほんびょう | 東本願寺 お東 | 京都市下京区 | 約8500 |
本願寺派 ほんがんじ | 本願寺 ほんがんじ | 西本願寺 お西 | 京都市下京区 | 約10000 |
宗祖親鸞の生涯(簡易)
- 1173年:京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範の長男として誕生
- 1181年:天台宗慈円和尚(じえん)のもとで出家得度し、以後20年間、比叡山延暦寺で修行
- 1201年:京都の六角堂に100日籠り聖徳太子(観音菩薩)の夢告にしたがい、浄土宗の宗祖法然上人の門下に入る
- 1205年:法然のもとで専修念仏の理解を深め、法然の著書『選択本願念仏集』の書写を許される
- 1207年:朝廷は念仏禁止の決定をし、法然は土佐国へ、親鸞は越後国(新潟県)への流罪となった
- 1208年:流罪の道中、越前の上野ヶ原や山元の庄などで弥陀本願の説法をする⇒誠照寺派や山元派のはじまり
- 1211年:流罪が赦免される
- 1212年:いったん帰洛し、京都山科に草庵を建てた⇒興正派や佛光寺派のはじまり
- 1214年:関東に入り上野国(群馬県)の佐貫にいたとされる。その後、常陸国笠間郡(現在の茨城県笠間市稲田町)の稲田草庵に移り住み、関東布教を行う
- 1224年:専修念仏の教えを体系的にまとめた『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』がおおよそ完成⇒浄土真宗の「立教開宗」の年
- 1226年:栃木高田の地に専修寺を創建⇒高田派のはじまり
- 1235年:関東から京都に帰洛の途中、滋賀木部の地に立ち寄り浄土真宗の教えを説く⇒木辺派のはじまり
- 1248年:「浄土和讃」や「高僧和讃」をつくる
- 1262年:11月28日の正午ごろ京都にて亡くなる。29日に京都東山の鳥辺野で火葬。30日に拾骨し大谷(鳥辺野の北)に埋葬
- 1272年:大谷の西、吉水の北の地に六角の廟堂を建て、親鸞の影像を安置し遺骨を移す⇒大谷派や本願寺派のはじまり
- 1876年:11月28日に明治天皇より「見真」の大師号を授かる
他の仏教宗派との違い
教え:自力より他力
自分の力で頑張って修行をして善根を積み、浄土へ往生や仏になるのを目指すことは浄土真宗の教えではない。
浄土真宗は、阿弥陀仏のすべての衆生を救わずにおれないという本願力(これが「他力」)を信じ、報恩感謝の心とともに南無阿弥陀仏を唱えます。阿弥陀仏の本願力・他力をよりどころとして生きるのが浄土真宗。
在家仏教
浄土真宗以外の仏教宗派は出家の形をとり、厳しい戒律を守り修行がある。
浄土真宗は絶対他力の教えであり、阿弥陀仏のはたらきによって阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ仏とならせていただくので修行がありません。肉食妻帯の人も、僧侶も僧侶でない人も、老若男女問わず、出家・在家にかかわりなく、誰もが救われるのが浄土真宗。
注意する点は、浄土真宗の仏教教団が世俗化したのではなく、在家生活そのままが仏道だということ。
戒名ではなく法名
戒名も法名も仏教徒としての名前を表す言葉だが、浄土真宗では「法名」、他宗では「戒名」という。
戒名は戒律を守り仏道修行する人びとにつけられる名前。
浄土真宗では、あらゆる人を救おうとする阿弥陀仏のはたらきのなかに生かされている私たちがいただく名前を「法名」という。
お経:浄土三部経
浄土真宗では、本尊阿弥陀仏の本願や浄土に関する教えが説かれている3つのお経「浄土三部経」を根本経典としている。
- 仏説無量寿経
- 仏説観無量寿経
- 仏説阿弥陀経
浄土真宗の教えはこの浄土三部経に基づているが、宗祖親鸞が書いた教行信証の「正信偈」や「和讃」もお勤めに読む。
お経:般若心経を読まない
多くの仏教宗派で読まれる般若心経を浄土真宗は読まない。(日蓮宗も原則読まない)
ただし、浄土真宗は般若心経を勉強すること・読むこと(唱えること)・写経することを禁止していない。般若心経をあえて読む必要がないのが浄土真宗。
阿弥陀仏の本願力(他力)をたのむことで救われる教えの浄土真宗が、観音菩薩が説く自分の力でさまざまな修行をして、偉大なる智慧を獲得して悟りにいたる自力の教えを、あえてすすめる必要はなかったのです。
作法:焼香
焼香をするとき、抹香をつまんでそのまま香炉に入れる。他宗のように額の位置で香をいただく動作をしない。仏様にお香を供えるのが浄土真宗。
線香は立てずに、折って横にねかせて供える。
お堂が広い
浄土真宗は他宗と比べると、本尊阿弥陀仏を安置するお堂では、仏さまをお堂の真ん中より後ろに安置し、参拝者を収容するスペースを広くしている。これは浄土真宗があらゆる人に開かれた教えであり、仏法を聞くことを大切にしているからである。
他宗のお堂は、本尊をお堂の中心に安置し、一般の参拝者のお参りするスペースは狭くなっている。
宗祖親鸞
宗祖親鸞は鎌倉時代の僧侶で、浄土宗を開いた法然のもとで専修念仏の教えに出あった。
同じ阿弥陀仏を本尊とする浄土系の仏教には、浄土宗・時宗・融通念仏宗があるが、宗祖はそれぞれ異なる。
名称 | 浄土真宗 | 浄土宗 | 時宗 | 融通念仏宗 |
宗祖 | 親鸞 1173~1262 | 法然 1133~1212 | 一遍 1239~1289 | 良忍 1073~1132 |
開宗 | 1224年 | 1175年 | 1274年 | 1117年 |